黙示録2章
2:1 エペソにある教会の御使いに書き送れ。『右手に七つの星を握る方、七つの金の燭台の間を歩く方が、こう言われる──。
2:2 わたしは、あなたの行い、あなたの労苦と忍耐を知っている。また、あなたが悪者たちに我慢がならず、使徒と自称しているが実はそうでない者たちを試して、彼らを偽り者だと見抜いたことも知っている。
2:3 あなたはよく忍耐して、わたしの名のために耐え忍び、疲れ果てなかった。
エペソの教会のしてきたことが取り上げられています。それは、良いこととして評価されています。偽使徒の偽りを見抜いたことも、悪者たちを放置しない彼らの行いです。偽使徒が教会全体を汚すことを許しませんでした。彼らは、教えにおいて、指導において力を持つ者たちです。その偽りを放置するならば、教会は道を踏み外してしまいます。
彼らの行いは、労苦と忍耐が伴いましたが、イエス様からよく忍耐したと評価されています。そして、イエス様の御名のために耐え忍び、しかも疲れ果てなかったのです。からは、不平不満を持つことも弱音を吐くこともありませんでした。
2:4 けれども、あなたには責めるべきことがある。あなたは初めの愛から離れてしまった。
2:5 だから、どこから落ちたのか思い起こし、悔い改めて初めの行いをしなさい。そうせず、悔い改めないなら、わたしはあなたのところに行って、あなたの燭台をその場所から取り除く。
しかし、彼らに責めるべきことがありました。それは、はじめの愛から離れたことです。「はじめ」は、時間的位置関係を表しています。それをしないならば、すなわち、今の、愛から離れた状態から考えを変えないならば、燭台を取り除きます。燭台は、聖霊によって神の栄光を現すことを表しています。その役割を終えるのです。
なお、「はじめ」には、「最も優れた」という意味がありますが、ここでは該当しません。もし、それを適用した場合、私たちの信仰の歩みにおける愛の程度は、かつての最高点を基準して歩むことになります。しかし、それが求められるべき愛の基準に達しているかと言えば、必ずしもそうではありません。イエス様の基準に照らしたならば、低いものと言わざるを得ません。その低い状態ではあるが今までの最高点の愛に戻れということでしょうか。そのような意味ではありません。
かつての行いは、愛による行いであったのです。愛を動機とした行いでした。しかし、今は、そこから離れているのです。彼らに求められたことは、考えを変えて初めの行いをすることです。それは、愛による行いです。
2:6 しかし、あなたにはこのことがある。あなたはニコライ派の人々の行いを憎んでいる。わたしもそれを憎んでいる。
ニコライ派の人々の行いを憎むことは、主イエス様の心と一つのことでした。教会が求められていることは、主イエス様の御心を主イエス様に適うように行うことなのです。それが愛による行いです。
それは、主イエス様が、父の御心を行われる方であり、どのような労苦も忍耐も忍ばれた方であるからです。また、全てのことを愛によって行われたからです。教会は、そのような主イエス様の栄光を現す者として置かれていますので、その証しを担わないならば、取り外されるのです。
2:7 耳のある者は、御霊が諸教会に告げることを聞きなさい。勝利を得る者には、わたしはいのちの木から食べることを許す。それは神のパラダイスにある。』
これは、御霊が言われることです。御霊が、勝利を得る者と関連付けられているのは、勝利を得る者は、御霊に従って御心を忠実に行う者であるからです。
いのちの木は、聖所から流れる水の流れのほとりに育ちます。神の御心を表す水と、聖霊の働きを表す流れによって結ばれた実なのです。その実は、イエス様が結ばれた実であり、それが食物となります。それとともに、その実を食することは、イエス様を知ることとともに、その人が水と御霊によって結んだ実をいのちすなわち、永遠の報いとして受けることを表しています。
黙示録
22:1 御使いはまた、水晶のように輝く、いのちの水の川を私に見せた。川は神と子羊の御座から出て、
22:2 都の大通りの中央を流れていた。こちら側にも、あちら側にも、十二の実をならせるいのちの木があって、毎月一つの実を結んでいた。その木の葉は諸国の民を癒やした。
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2:8 また、スミルナにある教会の御使いに書き送れ。『初めであり終わりである方、死んでよみがえられた方が、こう言われる──。
スミルナの教会に対しては、永遠の存在者である方として、また、死んでよみがえった方としてご自身を示されました。
2:9 わたしは、あなたの苦難と貧しさを知っている。だが、あなたは富んでいるのだ。ユダヤ人だと自称しているが実はそうでない者たち、サタンの会衆である者たちから、ののしられていることも、わたしは知っている。
彼らは、苦難の中にありました。また、貧しさの中にありました。彼らは、ユダヤ人と自称している人々から罵られていました。
この「貧しさ」は、経済的な貧しさを表すとともに、低くされていることを表します。キリストが富んでおられたのに貧しくなられたことについて使われています。その貧しさは、経済的な貧しさではなく、栄光に富まれる方が栄光のないものにされたことを表しています。ここでも、彼らが罵られることで、低い者として扱われていることを表しています。
コリント第二
8:9 あなたがたは、私たちの主イエス・キリストの恵みを知っています。すなわち、主は富んでおられたのに、あなたがたのために貧しくなられました。それは、あなたがたが、キリストの貧しさによって富む者となるためです。
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富んでいることは、栄光を受けていることを表しています。キリストは、人となられ十字架に掛かられることで、栄光ない者のようになりました。それによって、人は栄光を受けることができるようになったのです。
そのように、人々から罵られて低く扱われたとしても、彼らは富んでいるのです。それは、神の評価です。
ユダヤ人だと自称している者たちは、神の正当な選びの民であると主張したのです。そして、スミルナの人々を蔑み罵りました。しかし、彼らは、サタンの会衆です。悪魔の支配のもとに動く人たちであるのです。
黙示録は、ユダヤ人に関する預言の成就を扱っています。ここで、「ユダヤ人」は、真理のうちを歩む正当な信仰者を意味しています。彼らは、自分たちの正当性を主張し、他の人々を罵っていました。しかし、彼らが正しい信仰者でないことは、彼らが信者を罵ったことで明らかです。
2:10 あなたが受けようとしている苦しみを、何も恐れることはない。見よ。悪魔は試すために、あなたがたのうちのだれかを牢に投げ込もうとしている。あなたがたは十日の間、苦難にあう。死に至るまで忠実でありなさい。そうすれば、わたしはあなたにいのちの冠を与える。
スミルナの人々は、受けようとする苦しみを何も恐れることはないのです。それは、いのちの冠を与えられるからです。彼らに求められていることは、死に至るまで忠実であることです。たとい死の苦しみを受けたとしても、神の御心に対して忠実であることが求められています。彼の中には、投獄され、殺される者もあるのです。しかし、忠実であるならば、彼らのは、報いとしていのちの冠を受けるのです。それは、永遠の報いを資産として受け継ぐことであり、称賛と光栄と栄誉を受けることです。彼らは、主と同じ者に変えられ、主を知ることになります。
イエス様は、苦しみを受け蔑まれたのです。しかし、その中でイエス様は、死に至るまで忠実でした。父なる神様は、イエス様をよみがえらせなさいました。そして、最高の栄誉を与えたのです。それは、いのちの冠です。父とともに生き、父の御心だけを行い、死に至るまで御心対して忠実であったのです。父は、最高の栄誉を与えました。
2:11 耳のある者は、御霊が諸教会に告げることを聞きなさい。勝利を得る者は、決して第二の死によって害を受けることはない。』
これは、御霊の言われることです。御霊が勝利を得る者に言及されるのは、勝利を得る者は、御霊に従って御心を忠実に行う者であるからです。
御霊が言われることは、勝利を得る者は、決して第二の死によって害を受けることはないということです。悪魔が働いて、人を死に至らしめたとしても、その人に関して、第二の死は何の影響もないのです。死は、この世のことです。肉体に関することだけです。ですから、恐れる必要はないのです。それよりも、永遠の報いとしての命は、この上ない価値あるものです。
それを獲得するのは、「勝利を得る者」です。永遠の命と永遠の滅びが対比されています。御霊による者は、永遠の命すなわち永遠の報いを受け継ぎます。そのような者は、御霊を内住する者であるのですから、裁きとしての永遠の滅びの害を受けることはないのです。
2:12 また、ペルガモンにある教会の御使いに書き送れ。『鋭い両刃の剣を持つ方が、こう言われる──。
ペルガモンの教会に対しては、鋭い両刃の剣を持つ方として現れました。剣は、御言葉の比喩です。鋭いと形容されているように、判別の力を表しています。
ヘブル
4:12 神のことばは生きていて、力があり、両刃の剣よりも鋭く、たましいと霊、関節と骨髄を分けるまでに刺し貫き、心の思いやはかりごとを見分けることができます。
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この両刃の剣は、鋭さが強調されています。判別が難しいたましいと霊、関節と骨髄の分かれ目を指し通すことができます。心の思いやはかりごとを判別できるのです。なお、日本語での意味のように、両刃の剣は、相手を打つし、自分も傷つくことがあることすなわち非常に役にたつことがある反面、他方では非常に危険であることを意味しているのではありません。
2:13 わたしは、あなたが住んでいるところを知っている。そこにはサタンの王座がある。しかしあなたは、わたしの名を堅く保って、わたしの確かな証人アンティパスが、サタンが住むあなたがたのところで殺されたときでさえ、わたしに対する信仰を捨てなかった。
ペルガモは、サタンの王座があると例えられているようにサタンが支配しているかのように強く働く所でした。そこは、サタンが住んでいるとも例えられていて、サタンが常に働く所でした。そこでは、イエス様の確かな証人として証しを保っていたアンティパスが殺されたのです。迫害によって仲間の信者が殺されたときにも、彼らは、信仰を捨てませんでした。
2:14 けれども、あなたには少しばかり責めるべきことがある。あなたのところに、バラムの教えを頑なに守る者たちがいる。バラムはバラクに教えて、偶像に献げたいけにえをイスラエルの子らが食べ、淫らなことを行うように、彼らの前につまずきを置かせた。
2:15 同じように、あなたのところにもニコライ派の教えを頑なに守っている者たちがいる。
しかし、そのように幸いな信仰を保っていた教会でありながら、その中にバラムの教えを頑なに守る者たちがいました。バラムの教えは比喩で、ニコライ派の教えのことです。その教えは、パラむの教えに関する説明で明かされているように、偶像礼拝と姦淫の罪をもたらします。これは、ニコライ派の教えそのものを説明したものというよりも、ニコライ派の教えが、真理から背いていていることを表しています。真理に反いた教えは、偶像礼拝と姦淫に例えられます。神以外のもの向かうことであるからです。そのような教えを受け入れることは、大きな躓きです。
2:16 だから、悔い改めなさい。そうしないなら、わたしはすぐにあなたのところに行き、わたしの口の剣をもって彼らと戦う。
それで、考えを変えることが命じられています。間違った教えを捨てるのです。もしそうしない場合、主は、すぐに彼らのところへ行かれ、口の剣をもって彼らと戦われます。間違った教えに対しては、優れた判別能力を持つ真理の言葉でその誤りを判別し、戦われるのです。そして、真理の言葉に従うようにされます。このように、両刃の剣は、教えの正しさを判別することを表しています。
2:17 耳のある者は、御霊が諸教会に告げることを聞きなさい。勝利を得る者には、わたしは隠されているマナを与える。また、白い石を与える。その石には、それを受ける者のほかはだれも知らない、新しい名が記されている。』
勝利を得る者に対して与えられるものが示されています。隠れたマナと、白い石です。
隠れたマナは、イエス様を表しています。隠れていることは、次の白い石についても言われていることで、イエス様について知ることに関して、正しい教えに従った者だけが知りうることであることが分かります。マナは、主イエス様を表していて、その方を食べるように、自分のうちに受け入れ、御心を行うことで主と一つになり命を味わうことを表しています。そして、御国で報いを受けることが伴い、それも命として示されています。マナは、教えに適う信仰の歩みに関して示しています。そのように、御言葉に従うことで、主を知ることができるのです。御言葉に従った者だけが、主を知ることができるのです。
石は、教えの比喩です。白い石は、バラムが置いた躓きの教えと対比されています。それは、白によって混じり気のない清さを表しています。そして、御言葉に従った者だけが、その石に記されているイエス様の新しい名を知ることができます。それは、正しい教えを受け入れることにおいて勝利した者の経験です。
ここには、イエス様を受け入れて主と一つになって歩むことと、真理の教えを受け入れることが示されています。主とひとつになり、真理の御言葉に従った者だけが、主の御名を知ることができることを表しています。その御名は、特に真理の御言葉に関係していて、主は、真理としての神の御心に完全に従われた方です。そのようにして、神の栄光を現し、主御自身が栄光を受けられたのです。その尊い名を知ることになります。私たちが主を知るためには、真理の御言葉の中に、主とひとつになって歩むことが必要です。
2:18 また、ティアティラにある教会の御使いに書き送れ。『燃える炎のような目を持ち、その足は光り輝く真鍮のような神の子が、こう言われる──。
燃える炎のような目は、二十三節のことと対応していて、「思いと心を探る者」を表しています。
足は、真鍮のようなと表現されていますが、銅のことです。火で精錬されたものは、合金ではなく、銅そのものです。これは、「聖さ」を表しています。そして、御心を行なって高く評価され、父の右に挙げられた支配者を表しています。ここでは、神の子と表現されています。
2:19 わたしは、あなたの行い、あなたの愛と信仰と奉仕と忍耐を知っている。また、初めの行いにまさる、近ごろの行いも知っている。
彼らについては、あい、信仰、奉仕、忍耐について評価され、近頃の行いが優っていることも評価されています。
「初めの行い」は、「近ごろの行い」と対比されていて、これが時間的位置関係を表していることがわかります。
2:20 けれども、あなたには責めるべきことがある。あなたは、あの女、イゼベルをなすがままにさせている。この女は、預言者だと自称しているが、わたしのしもべたちを教えて惑わし、淫らなことを行わせ、偶像に献げた物を食べさせている。
しかし、責めるべきことがありました。イゼベルの名が取り上げられていますが、これは、比喩で、悪女イゼベルのことです。そのイゼベルのように、悪を行なっていました。それは、預言者と自称し、神の言葉を取り次ぐ立場を取り、誤った教えによって、神のしもべたちすなわち神の御心を忠実に行うべき者たちを惑わしました。それは、姦淫に例えられ、偶像に捧げた物を食べることに例えられています。これは、神の真理の教えから離れて、他の教えに行くことを比喩として示しているのです。
2:21 わたしは悔い改める機会を与えたが、この女は淫らな行いを悔い改めようとしない。
主は、間違った教えをする考えを変える機会を与えられました。しかし、間違った教えをなす考えを変えようとしませんでした。
2:22 見よ、わたしはこの女を病の床に投げ込む。また、この女と姦淫を行う者たちも、この女の行いを離れて悔い改めないなら、大きな患難の中に投げ込む。
そして、この女については、病の床に投げ込みます。彼女は、健全さを好まなかったのです。いつまでも誤りを続けました。それに対して病をもって報いるのです。
また、この女からの教えを受けている者たちも、この女と同じように行い、誤った教えを教えていました。その考えを変えて、そこから離れないならば、大きな患難の中に投げ込みます。
2:23 また、この女の子どもたちを死病で殺す。こうしてすべての教会は、わたしが人の思いと心を探る者であることを知る。わたしは、あなたがたの行いに応じて一人ひとりに報いる。
女の子供たちは、その教えを完全に受け継いだ者たちです。彼らには、病が与えられ、殺されます。これは、霊的な状態を比喩として示しています。彼らは、健全な教えに背くことで、正常な歩みができなくなります。いわば病なのです。そして、殺されることは、もはや神の前に実を結ぶことができないようにされます。彼らは、間違った教えの中に生きることで神の前に霊的には死んでいるのです。
そのようにすることで、すべての教会は、主が全てをご存じであり、その行いにふさわしく報いる方であることを知るのです。それは、今日も同じです。
2:24 しかし、ティアティラにいる残りの者たち、この教えを受け入れず、いわゆる「サタンの深み」を知らないあなたがたに言う。わたしはあなたがたに、ほかの重荷を負わせない。
2:25 ただ、あなたがたが持っているものを、わたしが行くまで、しっかり保ちなさい。
しかし、その誤った教えを受け入れていない者は、今持っている教えをしっかりと保つように命じられています。他の重荷について考える必要はなく、教えが健全であることだけが求められています。これは、最も重要なことです。
誤った教えについては、「サタンの深み」と言われてます。サタンについて知り得ないようなことを教えたのです。サタンの深みについては、聖書に記されていません。その知り得ないことを教えたのです。単なる人の想像に過ぎない教えです。
聖書の記事から、そこに書かれていないことを想像して語られることがありますが、それは空想話であり、話してはならないことです。
2:26 勝利を得る者、最後までわたしのわざを守る者には、諸国の民を支配する権威を与える。
2:27 彼は鉄の杖で彼らを牧する。土の器を砕くように。
勝利を得る者すなわち、主の業を守る者に対しては、諸国の民に対する支配権が与えられます。これは、イエス様の銅の足に対応しています。イエス様は、御心を行い聖なる方であることが現され、父によってその右の座に引き上げられ、支配権が与えられています。ですから、御心を正しく行うことがいかに価値があるかがわかります。
そのイエス様と同じように正しい教えを保つ者が勝利者であり、そのような者に対して、同じように支配権を与えられるのです。
2:28 わたしも父から支配する権威を受けたが、それと同じである。また、勝利を得る者には、わたしは明けの明星を与える。
その支配権については、イエス様が父から与えられたものと同じであると説明されていて、イエス様ご自身が御心を行ったがゆえにそれを与えられたことが示されています。
また、明けの明星が与えられることが約束されています。明けの明星は、イエス様を表しています。真理の光を放つ者を表しています。これは、間違った教えに対比されています。イエス様は、真理のうちを歩み真理の証し人してその栄光を放たれます。それを与えることは、真理を守る者に同じように栄光を与えることを表しています。
イエス様は、真理を教えただけでなく、身を持って真理を現されたのです。神の言葉を実践して、真理を現されました。明星を与えるというのは、そのように神の真理のうちを歩まれたイエス様が与えられるということです。与えられるというのは、その方を知ることです。その人自身が、この闇の世において真理の内を歩むことで、そのような歩みをされたイエス様を知ることになります。また、栄光を与えられて輝くのです。
▪️明けの明星について
イザヤ書
14:12 明けの明星、暁の子よ。どうしておまえは天から落ちたのか。国々を打ち破った者よ。どうしておまえは地に切り倒されたのか。
悪魔は、真理の証し人でしたが、神に背くことで天から落ち、切り倒されたのです。
ペテロ第二
1:19 また私たちは、さらに確かな預言のみことばを持っています。夜が明けて、明けの明星があなたがたの心に昇るまでは、暗い所を照らすともしびとして、それに目を留めているとよいのです。
真理の顕現としての、預言の御言葉の成就が、主イエス様の現れです。明けの明星として現れるときまで、暗い所を照らす灯火は、預言の御言葉です。
黙示録
22:16 「わたしイエスは御使いを遣わし、諸教会について、これらのことをあなたがたに証しした。わたしはダビデの根、また子孫、輝く明けの明星である。」
イエス様に関しては、明けの明星として示されています。この方は、その証しによって明確に神の御心を示されたのです。ダビデの子孫として王として立たれるのです。また、真理を証しする方として、明けの明星なのです。
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2:29 耳のある者は、御霊が諸教会に告げることを聞きなさい。』
御霊が諸教会に言われることを聞くように命じられています。聞く耳のある者は聞きなさいと。神の御心を行おうと願う者は、聞くのです。